山田卓のバイオグラフィー

若かりし頃の山田卓先生、ご本人のサイン入りです

若かりし頃の山田卓先生。ご本人のサイン入り

1931年8月16日大阪に生まれる。7人の子供の5番目。戦時中でもあり、決して裕福ではない幼少時代でした。
1937年、吹田第一小学校に入学。茨木中等学校へ進み、器械体操で国体第2位を受賞した。3年の時、旧制中学から新制に変わったため、3年で終了し、鳥羽商船高等学校へ進む。これからは世界が開かれるので、世界の人達と交流できる貿易関係の仕事がしたいと思われたそうです。ところが1年半で自主退学。理由は、ご自身の希望した航海科ではなく、さらには軍隊の名残があった旧式な校風が肌に合わなったためと推測されています。 退学後、実姉の勧めで江川バレエ団(兵庫県)に入団。舞踏家(ダンサー)或は振付家としての活動を始め、バレエ団員として進駐軍廻りなどもし、のちに日劇に入る。

その後「ステップイン」というダンサー20名ほどのチームを結成。地方公演や、メトロ、美人座、ユニバースなどで多数公演。ダンサー、振付家として個人でも活躍。後にステップインは解散。舞台芸術に関する勉強は全て独学で学んだ。当時、舞台芸術に関する洋書を何冊も読んでいた。共に働いたダンサー達に給料を払うため、家まで売却して支払われた経験もあるそうです。 また、一日でいくつものステージを同時にこなされていたそうです。

1953年に結婚。2男1女に恵まれる。

1956年に梅田コマ劇場ができて、そのオーディションを受け合格。ダンサー、振付家として大活躍を果たす。後に演出も手がけるようになる。この頃、浜村美智子の「バナナボート」の振り付け、演出で一世風靡する。OSK (大阪松竹歌劇団)の振付も手がけるようになり、1957年「宝塚歌劇団」による日本初のレビュー「モン・パリ」が再演された際に、初めて宝塚歌劇団の振り付けを担当。以来「ミー・アンド・マイ・ガール」「ガイズアンドドールズ」など、数多くの作品を手がけられます。
また、1974年から15年に渡るロングランとなった、木の実ナナと細川俊之の二人芝居「ショーガール」も全て振付されました。

ジャニーズ、フォーリーブス、少年隊、五木ひろし、西城秀樹、NHK「紅白歌合戦」、たのきんトリオの「ブルージーンズ・メモリー」、松坂慶子さんの「上海バンスキング」などの振り付けで多くのテレビ、映画で活躍。数々のヒットステージを生む。

1965年から劇団四季でも振付家として活躍し、「アプローズ」「ジーザス・クライスト=スーパースター」「CATS」「ミュージカル李香蘭」など、数々の劇団四季代表作を手がける。

晩年、振付家の社会的位置の向上を目指し、振付師ではなく振付家と言う言葉を定着させられました。また、自ら日本振付家協会を設立。初代会長となられました。また日本ジャズダンス芸術協会相談役も務められました。

2007年「大阪市市民功労賞」を受賞されています。

山田卓の振付シーン